義務教育の「義務」とは何への義務か(前編)
中学生の7人に1人が不登校
■必然としての「学校疲れ」
そうです。
中学生たちは、勉強がイヤだとか、いじめられるとかいった理由で学校に行
かなくなるというより、そもそも身体が学校を拒否している状態にあると評さ
ねばなりません。
学校に行こうとしただけで疲れてしまう感じですね。
「自分でもよく分からない」「学校に行く意味が分からない」「授業がよく
分からない・ついて行けない」といった答えにも、精神的な疲労感がうかがわ
れる。
三つすべてに「分からない」というフレーズが出てきますが、分からないこ
とを無理に考えようとすれば、頭が疲れるのは自明の理。
不登校(傾向)の子どもは、学校に関連したことで、頭や身体を使うのがお
っくうなのです。
とはいえ、どうしてそんなに学校がおっくうなのか?
ここで想起されるべきは、物事にたいして取り組むだけの価値を見出せず、「いくらやってもムダ」と失望したとき、人は疲れをおぼえて、おっくうに
なること。
この点については、BEST T!MESの記事「2010年代末、世界はみな疲れ
ている」で論じましたので、詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが、子
どもたちは学校に失望したあげく、わざわざ行くだけの価値を見出すことができずにいるのではないでしょうか。
となれば、必然的に登校するのがおっくうになる。不登校(傾向)が増えて当たり前です。
さしずめ「学校疲れ」というところ。
とはいえ、これは必然の帰結にすぎません。
なぜか。
戦後日本において、義務教育は本来成立しえないのです!次節ではその理由をご説明しましょう。義務教育とは国家への義務だ。
日本国憲法の第26条2項には、
を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」
と記されています。
しかし、ちょっと考えてみましょう。
この「義務」とは、いったい何にたいする義務でしょうか?
個々の国民が「その保護する子女」、つまり子どもにたいして、義務を負っ
ているとは考えられません。
第26条2項は、国民が「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務」
を負うと述べているのであって、「普通教育を受けさせる義務」を当の子女に
負うと述べているわけではないからです。
ついでにこれは、憲法の第三章「国民の権利及び義務」(第10条〜第40
条)の一項目。
他の項目では、請願権、思想・良心の自由、学問の自由、勤労の権利義務、
財産権、裁判を受ける権利などが定められています。
これらの権利や義務が、国家にたいするものなのは明らかでしょう。
すなわち義務教育の「義務」も、国家にたいするもの。
国の発展・繁栄のために、子供を勉強させ、能力を伸ばす義務を、国民は国
家にたいして負っているのです。
だからこそ戦前の日本では、天皇が教育の理想や目的を謳った「教育勅語」があった次第。
しかるに近著『平和主義は貧困への道 対米従属の爽快な末路』で論じたと
おり、戦後のわが国は、国家の否定を旨とする独特の平和主義のうえに成り立
っています。
勉強は国の発展や繁栄のために果たすべき義務だ!
──などという発想が受け入れられるはずはありません。